平野啓一郎さんは映画「本心」について下記のように語っておられます。
『ストーリーは2040年代を生きる、母を亡くした一人の青年の物語です。彼はAIによって再現された〈母〉によって、その悲しみと孤独の慰めを得ようとします。母の情報を学習したそのVF(ヴァーチャル・フィギュア)が、「自由死」を願い続けた母の「本心」を語ることを、恐れつつ期待しながら。――やがて、母の死後、初めて知ったその人間関係が、青年の心に大きな変化をもたらしてゆきます。……未来について考えることは、気候変動や人口減少など、現代の喫緊の課題になっています。AIやロボットが普及してゆくと、一体何の職業が残るのか?しかし、最も重要なことは、その時代の人間の「心」です。私たちは一体、何を感じ、考えながら生きてゆくのか? そして、「本心」について考えることは、社会全体について考えることに直結します。なぜなら、私たちがある社会システムを「是」とするのは、究極的には、それを「本心」から受け容れ、肯定している場合だからです。ところで、「本心」とは何なのでしょうか?テーマは、「最愛の人の他者性」です。「マチネの終わりに」、「ある男」に引き続き、愛と分人主義の物語であり、その最先端です。』平野啓一郎』(平野啓一郎公式サイトより引用)
分人とは
上記の「分人主義」とは、『「分人dividual」とは、「個人individual」に代わる新しい人間のモデルとして提唱された概念です。「個人」は、分割することの出来ない一人の人間であり、その中心には、たった一つの「本当の自分」が存在し、さまざまな仮面(ペルソナ)を使い分けて、社会生活を営むものと考えられています。
これに対し、「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。この考え方を「分人主義」と呼びます。』(後略)(平野啓一郎 OFFICIAL SITEより引用)
映画「本心」を観て、原作を読んで「本心」について私なりに考えてみました。
再現された母
「自由死」を選ぶ意志表示をしていた母が、事故で亡くなる前日にひとり息子の朔也に「たいせつな話がある」と言い残し、それが聞けぬままに亡くなった母の本心が知りたくて、ヴァーチャル・フィギュアの作製を依頼するところからストーリーが始まります。『ヴァーチャル・フィギュアには「心はありません」が、学習により「心のようなもの」を感じられることはあります。「身体感覚」はありません』と説明を受けます。ヴァーチャル・フィギュアによって再現された母によって、朔也は自分の知らなかった母を知ることになり、自身の出生について母から聞かされていたこととは違う真実を知ることになります。最後には母に愛されていたことを知ります。朔也はヴァーチャル・フィギュアの母に「心を感じて」一瞬でも「手に触れた」のです。でも部屋には自分ひとりしかいないことを認識します。
分心
「本心」のテーマは「最愛の人の他者性」です。誰しも愛する人の本心を知りたいと思うのですが、自分ではない他者の本心はなかなかわかりません。では「自分の本心を知っているのか」と問われれば、自分の本心もはっきりと捉えられてはいないのではないでしょうか。
目に見えないもの、例えば「愛」。実体のないものはつかめません。本心もそうです。
人は多面体でいろいろな側面を持っています。最愛の人となると本心を知りたいにもかかわらず、ひとりの人として多面的にみるよりも、自分との関係性によっての側面しかみられず、多面的にみられたとしても時には受け入れられない側面もあり、余計に本心がわからなくなります。
ひとりの人でも、その人のその時々の状況によって本心は違うのかもしれません。例えば、朔也の母が、朔也の出生の真実を仕事仲間であり親友でもあった三好に話したのも本心からなら、愛情があるがゆえに朔也に真実ではない話をしたのも本心からではないかと思います。そのことを息子である朔也が母としてではなく、ひとりの人間として受け止めて理解するのは難しいのかもしれません。
「分人」の集合体を「自分」とするなら、「本心」もまたひとつではないと思えます。ひょっとして「分心」(俄かに浮かんだ私の造語ですが)の集合体が「本心」ではないかと思います。
本心とは
最愛の人といえども本心はなかなかつかめないけれど、最愛の人の本心を知ろうとすること、理解しようとすることが人を愛することなのかもしれません。本心を知ることの他にもうひとつたいせつなことがあります。それは最愛の人と心地よい時間を過ごすこと、ただ楽しい時間を過ごすことです。その時間のひとこま、ひとこまに思いやりをもって、愛をもってお互いの話しに耳を傾ける。そんな時間の中で相手を理解し、自分も理解される。その時間なくしては、最愛の人の本心を知ることから遠く離れてしまうような気がします。後で振り返れば、懐かしく思い出す場面がたくさんあることはたいせつです。というのもそんな時間を過ごせる相手にしか、本心を話そうとは思わないのではないでしょうか。最愛の人と心地よく、楽しく過ごす時間の繰り返しの中で、相手が自分に語ってくれた「分心」が最愛の人の「本心」ではないでしょうか。私はそう信じています。