人が苦しみの中にある時、ただただ暗闇だと思ってしまいます。私はよくトンネルに例えます。トンネルの中が暗闇だと思いこんでいるとしたら、その先には差し込む太陽の光があり、外には燦燦と輝く太陽があるとは到底思えません。ひかりの存在には気づけないものです。
世の中には、対になっているものがたくさんあります。
ひかりと闇、プラスとマイナス、明暗、光と影、陰と陽、ポジとネガ、短所と長所などなどです。
良い面と悪い面という表現になっているように思えますが、どちらがいいとか悪いとかいうことではなく、ただふたつ在るということです。むしろ暗闇があって、ひかりがわかるというように、お互いに際立たせる存在同士ということにもなります。どちらかしかないと思う時、暗闇はひかりを隠し、ひかりは暗闇を隠していますが、お互いを覆い隠すことはできません。確かにひかりと暗闇とが存在するのですから。
人も例外ではありません。自分自身でも良いと思える面も、自分で受け容れ難いような醜いと思う面も、ひかりと暗闇が在るように在るのです。それこそがあるがままの自分です。
下記の絵を見てください。何に見えますか?
【 ルビンの壺 】
あなたには、何に見えますか?
どこを見るかによって、壺と向かい合った横顔に見えます。
向かい合った横顔に見える時、壺が無くなるわけではありません。どちらも在るのです。
【 女性の顔とお皿にのった魚 】
あなたには、何に見えますか?
どこを見るかによって、お皿にのった魚と女性の顔に見えます。お皿にのった魚に見える時、女性の顔が無くなるわけではありません。
どちらも在るのです。
見ようとするものしか見えない
このように片方しか見えない時も、両方存在しているのです。
横顔を見ようとしたり、壺を見ようとしてみてください。
女性の顔を見ようとしたり、お皿にのった魚を見ようとしてみてください。
意識して、両方在ることを一度に見ようとしても、見ようとする方しか見えません。
ひかりが在ること
このようにひかりと暗闇も、両方在るのですが、両方同時に見ることができないということです。ただ両方が在ることを忘れないでほしいです。
人生が苦しくてどん底と感じる時、それを闇と表現するなら、ひかりという存在するものを覆い隠そうとすればするほどに、闇しか見ようとしない時、あるいは見ることができない時、闇はより一層深く感じられるかもしれません。底がないように感じることもあるかもしれません。人生には、ひかりも、闇も在ることを思い出してください。
這い上がっていくしかない
苦しい時、むしろどん底だと感じることが必要なのかもしれません。底だと思えることができたなら、後は這い上がるしかないと思えるからです。
底だと思うことは、這い上がっていく始まりです。もうすでに這い上がっていく準備ができているのではないでしょうか。このように闇は希望のひかりに向かう始まりです。
人生どん底だとしか思えない時にも、同時に希望のひかりは在ると思っています。