いきなりですが質問です
「あなたにとって、死は身近なことですか?」
「あなたは人生をどんなふうに見ていますか?」
子どもの頃から「私にとって、死は身近なことです」
私が「死は身近なこと」と思うのには、子どもの頃に身近な人の死に触れることがあったからかもしれません。
小学校1年になったばかりの私が、近しい親戚のおじさんの家にお見舞いに行った時のこと、おじさんに私は、よく遊びに来ていた友人の名前で呼びかけられました。私が誰だかわからなくなっていることにショックを受けました。子どもの目から見ても、長くない命であることは横たわるおじさんの姿からわかりました。そして、人が骨と灰になってしまうことを目の当たりにしたことなどから、「人はいつか無になる」ということが私のこころにこびりついたようです。
いつの間にか、私が人生を考える時の出発点は「人はいつか死ぬのだ」ということになりました。若い頃、いつか死ぬとしたら人生をどう生きようか、いい加減に生きるには人生は長すぎるのかもしれない…と考えていました。
人生は虚無
脳科学者の茂木健一郎氏が、著書「生きる」で、
『「人生は虚無だ」と思っている。みんながつらいと感じているような人間関係や職場でのトラブルは、確かに大変だけど、「人生が虚無である」ことの恐ろしさと比べたら別に大したことがないという気がしている。この恐ろしさをわかってもらえるかどうか、ちょっと僕にはわからない。「どうせみんな死ぬからね」そんなふうに僕は世界を見ている』(茂木健一郎著作「生きる」より引用)と、あまり万人に共感される意見ではないかもしれないこととして書かれています。
私には、茂木健一郎氏の感覚がよくわかります。「人生が虚無である」ことの恐ろしさは強烈です。
絶対にと言えること
この世に絶対にと言えることは、少ないのかもしれません。
この世に生まれ死んでいくこと、そして、これから先何が起こるかわからないということだけは、老若男女問わず、貧しい人もお金持ち(富のある人)も、すべての人に平等に絶対にと言えることです。
別な視点から言うと、いつ死ぬかはっきりとわからないからこそ、またいつ何が起こるかわからないからこそ、生きていられるとも言えるのではないでしょうか。
一寸先は闇か光か
人生はほんの少し先でさえも予測できないことのたとえに「一寸先は闇」ということわざがありますが、人生において「一寸先が闇か光か」はわかりません。
今、苦しみの中にある人の苦しさも、そのまま続くとは限らないということです。
人はすべてが見えているのではなくて、見ようとするものしか見えない傾向にあります。
人はこころが苦しい時、苦しさに焦点があたっているので、自分のこころにある苦しさばかりを拾い集める傾向があり、苦しさがずっと続く、それがすべてだと思いがちです。
しかしほんとうにこころの中は苦しさばかりなのでしょうか?
苦しさはずっと変わらないのでしょうか?
私はふと自分のこころの苦しさから離れる瞬間が訪れることがあるのではないかと思っています。
私たちの生きているところ
私たちは何もない世界にひとりで生きているわけではありません。
例えば、目を閉じて「なにもない状態」を想像してみてください。
すると、すぐに何もない状態を想像することがとても難しいことだとわかると思います。
鳥のさえずり、遠くで聞こえる人の声、木の葉のそよぐ音、太陽の光、光の残像、目をつむると見える世界、私たちの周りには実にありとあらゆるものが存在し、私たちは常に何かしらに囲まれて生きています。
何も変わることのない人生に思えても、日々変化しています。
昨日と全く同じ今日はありえないのではないでしょうか。
日々ふれるものの中に、日常のあちこちに人生を転換させる何かが秘められていると私は思います。
それはありふれた日常の
ふと目にした看板の文字かもしれません。
新聞の一文かもしれません。
接した人からかけられたひと言かもしれません。
景色かもしれません。
生きてみる
あっと気づく、ひらめきが生まれる瞬間が訪れる可能性があるのです。
人は自ら内側から気づくと、日々の選択が変わることによって行動が変わります。そうすると選択の連続でつくられていく人生も変わっていくのです。
「人生が虚無である」ことの恐怖を知ってほしいとは思いませんが、「生きる」ことに生きづまりを感じた時には、「生きる」という視点から「どうせみんな死ぬからね」という視点で人生を見つめてみると、新たな展開があるかもしれません。
「どうせみんな死ぬからね」「何が起こるかなんて、誰にもわからないからね」ただそう思って人生を歩いてみてもいいのではないでしょうか。